前回、【アメリカ駐在員 永住を決意】~半生を振り返る~#1で、学生時代~留学~就活までの私の人生を書かせて頂きました。
今回は社会人になってから、現在に至るまでの半生を振り返ろうと思います。
この記事では以下のような方々の参考になればと思い、書かせて頂きます。
- 人生このままでいいのか、と考えている方
- 今後の人生を見つめなおしたい方
- 色々な生き方を学びたい方
- 人生のいろんな考え方に触れたい方
人それぞれ、色々な人生があります。人生は短いです。
皆さん、ご自身の人生、悔いの無いよう楽しんで過ごしてください!
新卒社員時代(大手総合機械メーカー勤務)
大学を卒業後、所謂、大手メーカーに就職し、一年目はほぼ新入社員研修。
研修では工場の製造ラインで働き、ルーティンワークに精神崩壊させられそうになりました。
また、研修では座学も多く、(不真面目ですが)非常に退屈だったのを覚えてます。
それでも、親戚や友人から「大手企業でいいな~」と言われると、少し誇らしく、「初期配属が決まったらがんばるぞ!!」と気合を入れていたのを覚えています。
いざ、配属が決まると私はある製品のOEM営業の部署に配属となり、東京勤務。
ここから地獄が始まりました。
建設機械メーカーへのOEM営業だったのですが、業界柄、乱暴な顧客が多く、新人ということもあり、怒鳴られまくりました。
「なんでこの仕様に変更してくれないんだ!!」と恫喝されるのですが、いざ開発や工場に掛け合うと、「そんな数量で細かい仕様変更とか受けてられないから断って」と言われ、また顧客に怒鳴れる。
社会人ってこういう意味の分からない世界なのか、と失望したのを覚えてます。
入社4年目に学生時代から付き合っていた現在の妻と結婚しましたが、新婚旅行の休暇の際も上司に「え?パソコン持って行って仕事するんでしょ?」と言われ、「マジでこの組織ヤバいな」と思ったのを覚えてます。
さらに、結婚前まで毎週土日のどちらかは出社して仕事をし、平日も終電まで仕事を毎日していたので見事に社畜となっていました。
このような生活を送っている方は、今も日本には多くおられると思います。辛いですよね、ホントに。。。
転職活動
就職したメーカーはグローバル企業でもちろん駐在のチャンスもあったのですが、いかんせん100年以上の歴史がある「ザ・日本企業」でした。
非常に古臭い文化やよくわからない社内ルールなどは、学生時代にアメリカへ留学していた私には苦痛でしかなかったため、もっと開けた社風もグローバルな企業に転職しよう!!と考えました。
その前に・・・実は、結婚後、妻も留学経験者だったこともあり、「ちょっとこの日本の社会でサラリーマンするのは苦痛でしかないよね。毎日満員電車に詰め込まれる生活だし・・」ということで毎年、グリーンカード抽選に応募してました。(見事、全敗です)
また、どうしてもアメリカで暮らす夢をあきらめきれず、アメリカ転職などのセミナーに参加したり、エージェントに相談したりしてました。ただ、結局まだまだ日本では「若手のペーペー」という扱いを受ける20代だったため、アメリカで転職とはいえ、まともな金額で雇ってくれる日系企業もなく、貧乏生活をアメリカで過ごすことになることから、いきなりアメリカで就職!という目標は一旦諦めました。
そして、まずはキャリアを積んでアメリカに駐在できる道を探します。
そして、じっくり転職活動をし、1年くらいかかってようやく総合商社への転職が決まりました。
1年かかったというと、かなりがんばった感出てますが、実際はメーカーの仕事が忙しすぎて空いた時間にたまにやる程度だったのでこれくらいかかってしまいました。
総合商社への転職は、当時、総合商社への転職は銀行経験や投資会社などからの転職しか受け付けていないよな環境だったのですが、私がメーカーで扱っていた製品が非常に専門性の高い製品であったため、商社も大喜びで採用してくださいました。(本当にこのメーカーで働いていたことに一番感謝した瞬間です)
総合商社時代
総合商社に入ってからは、希望通りアメリカのプロジェクト管理や主にアジア圏での投資案件・新規プロジェクトに携わり、転職後4年間はアジア・ヨーロッパ・アメリカを飛び回り、日本では夜中まで仕事をする毎日が続きました。
幸か不幸か、メーカー時代に死ぬほど働くのには慣れていたため、「総合商社の仕事はキツイ」と友人から言われていましたが、耐えられました。(仕事内容が楽しかったので激務は案外苦になりませんでした)
また、総合商社の仕事が非常に楽しく、一時は「もし駐在できなくてもこのままでもたのしいな」と思えるほどでした。
駐在
総合商社へ入社後、4年足らずでアメリカ駐在が決まり、シカゴへ。
学生時代の留学先はカリフォルニアだったため、アメリカ中西部シカゴの冬の寒さと雪の量に心がくじけそうになりました。
コロナ前は毎晩9時頃まで会社で仕事をして、帰宅してからまた夜中まで仕事・・・という毎日。
出張も多く、1か月の半分くらいは出張。ひどいときは1週間出張し、土曜に帰宅して日曜にまた別の出張に行く、ということもありました。
こんな生活を続けていたため、妻からは「アメリカで母子家庭のような生活」と愚痴を言われたこともあり、さらに小さかった子供は私が帰っても「たまに家にいる知らないおじさん」というような反応で全然懐いてくれませんでした。
そんな時、コロナが発生。一気に生活は変わりました。学校も最初の半年くらいなかったため、子供もずっと家にいて、私もずっと在宅だったため、朝・昼・晩の3食を家族と一緒に取るのは結婚以来初めて(休日除く)という状況。
17時に一旦仕事を止め、食事をして子供とお風呂に入り、妻に寝かしつけをお願いして、仕事をする、という生活になりました。また、電話会議がある日は、17時になったら一旦子供をお風呂に入れてから会議に参加したりしてました。
ただ、コロナで在宅をしているとアメリカの現地社員に差が出てきます。在宅でも一生懸命仕事をする人と、働かない人。そんな中でManagerとして働く私は働かない人のフォローをしたりしていると結局、コロナ後も毎晩夜中まで仕事をする羽目に・・・
そして、上司からは働かない社員へのダメだしやらなんやらと、ものすごいプレッシャーを毎日受け続けました。
そんな生活が続いて1年もしたところで、「結局、人生なんてあっという間に終わるし、今回みたいにコロナのようなことが起こればどうなるかわからない。だったら、これからは自分や家族がありたい姿を追い求めよう」と決意し、社畜生活から卒業することにしました。
改めて考えてみると、60歳までこんな感じで仕事をし続けると、年取ってから振り返るとなんか空しいなとふと思ってしまいました。そして、ふと学生時代に描いていたなりたかったオトナの姿と比べてみると、なんだか今の自分は当時の自分がなりたかった姿なのかと考えたことで、これでは駄目だ!と思うようになりました。
とはいえ、すでに一度転職経験があったため、コロコロ職を転々としても結局同じだし。そもそも日本企業という権威主義の象徴のような組織で働くのは絶対に嫌だ!と思い、「アメリカで起業しよう」という結論に達しました。
簡単に「アメリカで起業だ!」と決めたところで、アメリカではビザの問題もあります。また家族がいる身でいきなり起業するのはリスクもあるため、アメリカで転職し、現地採用として働きながら起業をすることに決めました。
そうと決めてからは人脈をフル活用し、シカゴの日本人起業家に会いに行ったり、就職先を探したりと9か月程度活動し、ようやくアメリカでの就職先が決まりました。
これからは仕事のために生きるのではなく、家族のため、自分のために少しでも充実した人生を追い求めていきたいと思います。
これまで、仕事ばかりで家庭を蔑ろにしてしまい、妻には頭があがりません。
これからの我々家族の物語をこのブログで綴っていきます。
それでは、また!